62歳、いこいの村で見習い中
~瀬戸内を見下ろしながら~
その宿は、岡山の山あいにひっそりと建っている。
「岡山いこいの村」
名前は雄大だが、知る人ぞ知る、静かな宿である。
1階ロビーから階段を登った先に広がる客室。
その窓からは、瀬戸内海が一望できる。
素晴らしい眺めである。
小豆島が目の前に見える。
天気のいい日には、遠くの島々が
水墨画のように浮かび、
海と空の境がわからなくなるほど、美しい。
「こんな絶景、もっと多くの人に見てもらえたらいいのにな…」
62歳の新人アルバイト、しもやんは、
配膳用のお盆を手にそう思った。
今日は、団体様のお食事の配膳をしている
いつもよりは少しだけ賑やかになる日だ。
「シモさん、この小鉢、並べて!」
「はいっ!かしこまりました!」
返事はまるで大学時代のバイト時代に戻ったかのよう。
だが、目の前に並ぶのは、30人分の小皿、鍋、お刺身。
順番、位置、器の角度
気を抜けば、料理の美しさが台無しになる。
緊張感が漂う中、ふすまが音を立てて開いた。
「すいませーん!お茶、いただけますか?」
「はい、ただいま!」
…が、次の瞬間。
(…お茶、どこや?)
背中に冷たい汗が流れる。
テンパる62歳。
それでも、深呼吸して、近くの先輩に小声で聞く。
少しずつ、こうして“現場”に馴染んでいくのだ。
思えば、今までは“しゃべる”のが仕事だった。
コロナが来る前までは、東京日暮里に、
しもやんランドという事務所を構えて
日本全国を飛び回っていた。
講演家として、セミナー講師として、ステージの上で語ってきた。
「先生」と呼ばれ、ちやほやされることもあった。
だが、今は違う。
「丁稚奉公から、やり直しや。」
雇ってくれた社長は28歳。
自分の息子より若い。
それでも構わない。いや、むしろありがたい。
「自分を底辺に置け」
バリ島のアニキの言葉が、今日も心の中で鳴っている。
ちょうど10年前の52歳のときも
千葉県柏市のお好み焼き屋さんに
丁稚奉公のアルバイトに申し込んで
その店では26歳の店長に鍛えられた
結局そのときも、1年半の期間、アルバイトで
実地で人の下で働いて修行させてもらった
62歳になったいまも、プライドなんて鼻くそピー、
そんな役に立たんもんはなにもない。
敬語を使って、若い先輩に教わって、配膳し、運び、下げる。
それが、いまの自分にとって最高の学び場だ。
ここ、岡山いこいの村は知名度はまだ低い。
団体のお客様も、正直、毎日は来ない。
それでも、ここで働く人たちが丁寧に準備し、
心をこめて接客しているのを、知っている。
「きっと、ここから、何かが始まる」
この“いこいの村”での出会いが、
人生の新しい物語を連れてくる。
そしてある日、その物語は、本になるかもしれない。
「62歳、瀬戸内の宿で見習い中」
そういうタイトルの自叙伝が、書棚に並ぶ日を夢見ながら――
彼は、今日もエプロンを締め直し、お膳を抱えて客室に向かう。
瀬戸内の海は、今日も静かに、彼を見守っている。